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「人生は神ゲーだ」という比喩を言語学的に考えてみる【弱キャラ友崎くん】【概念メタファー】

はじめに:「弱キャラ友崎くん」について

 「弱キャラ友崎くん」という作品を知っていますか?

 屋久ユウキさんというツイ廃の作家さんが書いているラノベであり、現在アニメが放送中のホットな作品でもあります。

 僕は原作のラノベが好きで、最近の青春ラブコメ系ラノベの中では群を抜いて作劇が上手い優等生的な作品だと思っています。(アニメはまだ見れてないので、早く見たい)

 ちなみにヒロインの中では菊池さんが一番好き……9巻良かった……

 この作品は、主人公の友崎くん(根暗陰キャゲーマー)がヒロインの日南さん(陽キャ美少女ゲーマー)の指南のもと、立派なリア充を目指していくというストーリーなのですが、その際「人生はクソゲーだ」と言う友崎くんと「人生は神ゲーだ」と言う日南さんが対比的に描かれています。

 これに関して、「人生は神ゲーだ」という表現は改めて考えてみると言語学的に面白い素材だなと感じたので、記事にしてみた次第です。

概念メタファーとは

 言語学、中でも認知言語学という分野の学問に、「比喩」を研究している領域があります。
 認知言語学は、「人間の言語表現はどのような認知・心理(もっと言うと脳)の働きによって成立しているものなのか」を研究している分野なので、「比喩」という写実的ではない、ある意味特殊な表現はどうして成立しうるのかということにとても関心があります。

 その認知言語学の学説のひとつに、「概念メタファー論」という考え方があります。これは、「人間が言葉の上で比喩表現を使えるのは、頭の中で比喩的な認識の枠組みが成立しているからだ」という考え方です。

 理解しやすいように、例を出してみます。

 「人生の岐路に立つ

という表現を考えてみましょう。あまりにも普通に使いすぎていてふつう顧みることはないと思いますが、実はこの表現は比喩だと言うことができます。

 「岐路」は分かれ道という意味ですが、本来これは物理的な「道路」の状況を指す言葉です。また人生は抽象的なものなので、「岐路」というのはあくまで比喩だというわけです。

 ではここからが問題なのですが、我々が普段から「人生の岐路に立つ」という表現を違和感なく使えるのはなぜなのでしょうか。

 この問題に関して、「概念メタファー」の考え方を取るなら、「我々の頭の中に『人生=道を物理的に進んでいくような営み』だという比喩的な認識の枠組みが成立しているからだ」と考えられるというわけです。

 つまり、この認識の枠組みのことを「概念メタファー」と呼んでいるわけですね。ちなみに、この認識の枠組みについてきちんと表現すると、先ほどの例では「人生は旅である」という概念メタファーだと言えます。

 この概念メタファーは多く存在しており、例えば、「議論は戦争である」や「心は容器である」といったものが有名です。興味のある方は、もしよければこのような概念メタファーにもとづく比喩にはどのようなものが考えられるか、また他にはどのような概念メタファーがあると思うか考えてみてください。

「人生はゲームだ」という新世代の概念メタファー

 では話を「弱キャラ友崎くん」に戻しましょう。

 上述の概念メタファーは理論上新たなものがどんどん生まれうるのですが、実際にはほとんどの概念メタファー的表現が出尽くしてしまった感があります。
 人類が言葉による比喩表現を用いてから随分と歴史を重ねてきているので、新たな比喩の体系を生み出したり、それを発見したりするのは生半可なことではないのでしょう。

 しかし、「弱キャラ友崎くん」でよく語られるような「人生は神ゲー」──ひいては「人生はゲームだ」という比喩表現は、新世代の概念メタファーと呼べるような認識の枠組みではないかと思うのです。

 「人生はゲームだ」という大本の比喩があるため、日南さんの「人生は神ゲー」だという表現が派生してきますし、「新しいことに挑戦して経験値を得た」とか「転職してレベルアップする」とかいう表現もふつうに違和感なく使えるというわけです。

 言語学を専攻していると、日常会話から面白い表現の実例を常に探してしまうという職業病(?)のようなものが生じるのですが、「弱キャラ友崎くん」をきっかけに新たな概念メタファーの例に気づけた、というお話でした。

ちなみに……

 ちなみに、今回のテーマ「概念メタファー」についての用語解説記事も作成してあります。
 もう少し知りたいという方は、下の記事もぜひ読んでみてください!

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