アカデミック×オタクコンテンツ

コンテンツ「を」考察する楽しみ

「解釈する」ということは何か?


 Q. このときの登場人物の心情を答えよ

 小学校以来の学校国語で、このような問いに出会ったことはあるでしょうか。僕は悪知恵の働く(教師からしたらこの上なく面倒な)小学生だったので、内心こう考えていました。

「いやいや、そんな他人の心なんてわかるわけないじゃないっすか」

 この時の僕の考えは、正しくもあり間違ってもいます。何が正しいのかというと、「他人の心なんてわかるわけない」ということです。まあもちろん人間はバーバル・ノンバーバルとわず様々な情報を発露しているので、ある程度の推測は可能かもしれません。しかし、その根拠は不確実なものです。極論、自分以外の人間がすべて「哲学的ゾンビ」だったとしても成立してしまいます。(本当に極端な例ですが)

 では先ほどの話に戻りましょう。かつての僕の考えは何が間違っていたかというと、「登場人物はあくまで被造物」であるという前提が欠けていたことです。デカルトは、認識の不確かさを一旦排除し合理的に論を展開すべく、かの有名な「我思う、ゆえに我あり」という言葉で認識の主体である自己を基盤として設定しました。「登場人物の心情を答える」というのは、理屈的にデカルトの方法とほぼ同じです。

 「登場人物=被造物」ということは、ふつう作者の意図によって設定され、偶発的な言動は行わない、ということを意味します。(その前提を崩すこと自体が作者の意図でなければ、ですが)最初のクエスチョンに戻りましょう。

Q. このときの登場人物の心情を答えよ

 ここまでの話を踏まえれば、もうかつての僕のような愚行は犯さなくていいはずです。しかし、かつての僕は人一倍悪知恵の働く(もはや執筆中の現在の僕からしてもこの上なく面倒な)小学生だったので、次は内心こう考えるでしょう。

「いやいや、解釈なんて無限にできるし、絶対的な正解なんてないでしょ」

 この、かつての僕’(ダッシュ)の考えはあながち間違いでもありません。ニーチェによると、「真実というものはなく、あるのは解釈だけ」なのだそう。可能性は無限大ということでしょうか。
 とはいえ、「作中の表現・描写」や「作者のインタビュー」などから、解釈の幅を狭めることはできます。この行為(の反復)がすなわち「解釈する」ということなのです。つまり、考察とは妥当性の高い解釈(仮説)を探っていく行為。これはまさに、学術的な営みと同じ作業と言えます。そして、この前提を踏まえることではじめてコンテンツ考察に学術的な手法が使える根拠が明確になるのです。アカデミックに捉えれば、先述した「作中の表現・描写」から解釈を絞る行為は、「記号論的解釈」。「作者のインタビュー」から解釈を絞る行為は「作家論的メタ解釈」と言い換えることができるかもしれません。

 カジュアルアカデミックなオタ活とは、オタクとして娯楽を楽しむことと、学術的なアプローチを結びつける取組みだと言えるわけですね。

ちなみに……

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