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【ネタバレあり】新劇場版とは何を描いた物語だったのか【『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』感想・考察】

ついに公開された、かのエヴァンゲリオンの完結編。
オタクを自称するなら見に行かないわけにはいかない……!ってことで僕も公開日に行ってきました。

結果は大号泣。エヴァはオタクにとってのアイコン的存在(むしろエヴァ的には語源通り「イコン的」と言ったほうがそれっぽいかもしれない)ですが、その責任をよくもこんなにきれいに引き受けて、なおかつ昇華してくれたなと感動しきりでした。
エヴァを観てこんなに清々しい気持ちになれるとは……(綺麗にまとまっている貞本エヴァでさえここまでではなかった)

というわけで、エヴァファンの先人たちに倣い、僕もシンエヴァの考察を交えながら感想を語っていきたいと思います
(考察は作品世界のことよりも、メタ的な作家論・作品論に近いものになるかと思われます。)
以降はネタバレを含むので、ネタバレが嫌な人は鑑賞後にご覧になってくださいませ。

*この記事は、実験的にnoteでも公開しています

オタクにとっての「エヴァ」

導入部で述べたように、「エヴァ」という作品は「オタク」という存在にとって良くも悪くも非常に大きな存在としてありつづけました。
それはTVシリーズからエヴァを追っていたチルドレンも、新劇場版(以下、新劇)から入ったチルドレンも(あるいはエヴァを観たことがない新規のオタク層でさえ)自覚無自覚問わずエヴァの影響を強く受けているはずです。
エヴァがすごいのは、どの世代のファンにとっても「これは自分の(ための)作品だ」と感じさせるところでしょう。
それは、エヴァが「すべてのオタクのための物語」とも言うべき存在だからです。

個人的な話をすると、僕は新劇から入った世代です。『新劇場版:序』公開時は小学生で、そのタイミングで「古典的名作」であるエヴァを履修し始めました。
そんな僕でもすっかりエヴァに魅了されてしまい、自分なりにエヴァのことを大事に思っています。
それもひとえに、僕がオタクであるから、そしてエヴァが「すべてのオタクのための物語」だからです。

では、「エヴァ」は「オタク」にとってどのような意味をもってきたのでしょうか。
少しアニメ史的な説明を交えながら整理したいと思います。
(TVシリーズから追いかけているチルドレンには至極当然の内容ですが、僕と同世代以降のチルドレンのためだと思って温かい目で読んでおいてください)

よく、エヴァは「第三次アニメ革命」を起こしたと言われています。
これは1970年代の『宇宙戦艦ヤマト』・1980年代の『機動戦士ガンダム』に次いで、1990年代(TVシリーズは1995年放送開始)の『新世紀エヴァンゲリオン』が社会現象を巻き起こしたアニメとして位置づけられていることを意味します。

これらの革命的アニメ作品は、その後のアニメに多大な影響を与えてきました。
その中でもエヴァは、その後のいわゆる「深夜アニメ」のフォーマットを作ったという点で、非常に大きな存在です。
製作委員会方式・円盤売り上げでのマネタイズ・メディアミックスといった商業的な部分から、萌えキャラ・二次創作といったオタクカルチャー的な部分まで。エヴァは物質的・精神的にオタクコンテンツの支柱として存在感を発揮していきました。

新劇までの「エヴァ」

そんな超ヒット作であるエヴァですが、エヴァのヒットによって生み出されたオタク文化に対して、庵野監督は辟易していたようです。
旧劇場版(以下、旧劇)では、そんなオタク批判が痛烈に込められていました。アニメ作品に実写映像を盛り込み、しかも声優のコスプレ姿や観客自身を映すという手法で、観客を強制的にエヴァから排除しようとしていたようにも思えます。

「アニメという閉じられた世界に執着するのではなく、現実に目を向けろ」というメッセージが、暴力的に示されているのです。

あるいは当時論じられていたように、宮崎勤事件やオウム関連の事件とオタクとが結び付けられ、エヴァがオタクの象徴として槍玉に上げられていたことに対して、警戒心と忌避感を抱いていたのかもしれません。
エヴァは良くも悪くも庵野監督の精神性と社会的背景の影響を色濃く受ける作品なので、それがファンにとっては必ずしも良い方向に働かなかったということでしょうか。

しかし、この旧劇での「ゲームの電源が急に落とされるような」終わりは、賛否の批評を数多く巻き起こし、結果的にエヴァのカルト的人気を煽ることにもなってしまいます。

その後、「第四次アニメ革命」が起こることはありませんでした。
エヴァに触発されたように、主人公とその周辺(多くはヒロイン)だけの関係が世界の命運を左右する作品が次々に生まれていきます。
それらの作品群は「セカイ系」と呼ばれ、「ゼロ年代」という新たな時代を作っていきました。
つまり、エヴァは90年代からゼロ年代まで通して、絶対的な存在だったのです。
このことは、TVシリーズと旧劇場版で二度も終わらせたはずのエヴァが、オタク、アニメ界、そして庵野監督をも縛り付ける存在になってしまったことを意味します。

そしてTVシリーズ完結から10年経った2006年、新劇場版の制作が発表されます。
これに際して発表された「所信表明」にて、庵野監督はこのように述べています。

(略)
そのために今、我々が出来るベストな方法がエヴァンゲリオン再映画化でした。
10年以上昔のタイトルをなぜ今更、とも思います。
エヴァはもう古い、 とも感じます。
しかし、この12年間エヴァより新しいアニメはありませんでした。

閉じて停滞した現代には技術論ではなく、志を示すことが大切だと思います。
本来アニメーションを支えるファン層であるべき中高生のアニメ離れが加速していく中、彼らに向けた作品が必要だと感じます。
現状のアニメーションの役に少しでも立ちたいと考え、再びこのタイトル作品に触れることを決心しました。

エヴァより新しいアニメはなかった、というのは非常に強く、傲慢にも見えるメッセージです。しかし、当時の庵野監督にとって、この言葉は真実だったはずです。
また庵野監督は、若年層のアニメ離れを憂慮していました。
好きなコンテンツと同好の士によって構成されたコミュニティという閉じた世界に安寧を求めてきたオタクが、排他性を強めていると感じてたのでしょう。

新劇は、何を描いた「エヴァ」だったのか

では、このような背景でスタートを切った新劇は、何を描いた物語だったのでしょうか。
その答えこそが、『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』で明示されていると僕は考えます(やっと本題です)

結論から言うと、新劇は、
「『エヴァ』を解体し原始に回帰することで、自らの起こした『インパクト』の責任を果たし、次世代にバトンタッチをする」ための物語、です。

そしてこれが、作品世界(虚構)と現実世界という二つのレイヤーでそれぞれ行われているのです。
言い換えれば、作品やキャラの構造を、エヴァとアニメに関わるメタ構造に置き換えられるということです。

例えば、シンジ・レイ・アスカといった旧来のメインキャラクターは以下のように考えることができます。

  • シンジ:視聴者(エヴァファン)≒オタク≒監督自身
  • レイ・アスカ:デフォルメされた記号的アニメキャラクター(萌えキャラの象徴)

そもそもTVシリーズ(および新劇:序・破)でのシンジは、自立や社会への適合を強要される思春期の青少年のアナロジーとして描かれてきました。
関係の疎遠な親に命令され、わけもわからないまま押し流され、それでも自分の居場所を求めてやまない。そんな思春期の多感で複雑な心情が、ありありと描かれてきました。
エヴァに登場する難解な用語はあくまで「大人たちのよくわからない理屈」の比喩であり、それらがほとんど説明されないのも、視聴者に「思春期」を疑似体験させるためなのです。

『Q』において、シンジに対して現状の経緯が全く説明されないまま物語が進むのも、この疑似体験のためです。
『Q』の時点で、それまでのエヴァ用語はほとんどが考察され、意味のある言葉として理解されてしまいました。そのため、視聴者をTVシリーズの初期状態と同様に戻す必要があったのでしょう。
そして『Q』のシンジは、自身が無自覚に起こした「インパクト」のせいで、周囲と孤立してしまった存在としても描かれます。
これはまさに、自身の作った「エヴァ」という作品によって、アニメ界に「インパクト」を良くも悪くも起こしてしまった監督自身と対応するものです。

一方、レイとアスカの役割は、新劇場版でより先鋭化されました。
新劇場版において、レイとアスカはどちらもクローンによって量産される存在です。(アスカが新劇場版で「惣流」ではなく「式波」なのもこのため)
そして、『シン』にて彼女たちクローンは、「シンジ(主人公)に対して好意を抱くよう設計されている」ことが示唆されていました。
これはレイ・アスカが量産される萌えキャラのアナロジーとして描かれていると言えるでしょう。旧作でレイが担っていた役割を、新劇ではアスカも担うようになったとも考えられます。

話を新劇のテーマに戻しましょう。
新劇の、そしてエヴァという作品の完結編となる『シン』は、キャチコピーの通り「エヴァに別れを告げる」物語でした。
物語終盤で、シンジは他の主要なキャラクター(ゲンドウでさえ)とエヴァそれ自体を、対話によって救済していきます。
各キャラクターに感謝を告げ、「自分はもう大丈夫だから」と優しく自らの成長を示します。

そして、シンジ自身はマリによって救済されるのです。
マリは旧作には登場しないキャラクターでした。マリというキャラクターは、従来のエヴァファンにとっては異物であり、旧作に登場しなかったということは監督にとって自身の外側で生まれた存在であることを示唆しています。
シンジがレイでもアスカでもなく、マリによって救われたことは大きな意味があると考えます。
記号化された従来の萌えキャラではなく、未知の新たな存在に手を引かれる形だからこそ、エヴァファン・監督両方の代弁者であるシンジはエヴァとエヴァのある世界に対し綺麗に決別できるのです。

『シン』の最後で、物語はエヴァのない世界(=我々にとっての現実)からの新たに続いていくことを予感させました。
シンジは成長し、声優すら変わっていました。シンジは、(年齢やビジュアルの固定されてきた)アニメキャラクターという存在から解放されたのです。

『シン』では、ミサトと加持さんの息子である「加持リョウジ」が登場していました。
彼は、『破』から『Q』までの空白の14年間で生まれてきた新たな世代の代表です。つまり加持ジュニアは14才。これはTV版および『序』『破』でのシンジの年齢と同じです。
まだ子供だと思っていたチルドレンは、いつの間にか次の世代ができるほど成長していたのですね。

では、作品世界の外側における世代交代はどうでしょうか。
大人シンジの声優が神木隆之介さんであり、階段を駆け上がっていくような終わり方であることは、嫌が応にも『君の名は。』および新海誠監督作品を意識させられます。
「エヴァより新しいアニメはなかった」と語った庵野監督は、次なるセカイ系の担い手として新海監督にバトンを渡せたのでしょうか。少なくとも僕は、そう思いたい。

上述した「シンジ」は、すべて視聴者(エヴァファン)≒オタク≒監督自身と代入しても意味を持つ重層的な構造になっています。

『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』という作品は、作中のキャラクターにとっても、ファンである視聴者にとっても、そして監督自身にとっても、エヴァに感謝と別れを告げる盛大なフィナーレを飾ってくれました。

実のところ、旧劇も新劇もメッセージ性は変わっていません。
同じ「現実に目を向けろ」というメッセージではあっても、その伝達は真逆のアプローチによって行われていました。

それを、「丸くなってつまらない」と評す人もいるかもしれません。しかし僕は、庵野監督のこの人間賛歌的な変化を心より祝福し、感謝を伝えたい。

さかのぼること2002年、庵野監督はマンガ家の安野モヨコさんと結婚されました。そして新劇場制作発表前年の2005年、庵野監督は安野モヨコさんのマンガを次のように評価しています。

嫁さんのマンガは、マンガを読んで現実に還るときに、読者の中にエネルギーが残るマンガなんですね

『エヴァ』で自分が最後までできなかったことが嫁さんのマンガでは実現されていた

僕は『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』を観て、エネルギーをもらえました。
庵野監督の心境の変化が、安野さんによる影響なのだとしたら、それはとても幸せなことだと思います。

ありがとう、エヴァンゲリオン。
ありがとう、庵野監督。そして、お疲れ様でした。

シン・ウルトラマンも期待してます!!!!!!!!!!(余韻台無し)

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